甲斐善光寺

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歴史と宝物

指定文化財
Designated cultural property

重要文化財

善光寺本堂一棟 附 厨子一基 棟札二枚(昭和30年6月22日指定)

 戦国の武将武田信玄は、川中島合戦の折、信濃善光寺が兵火にかかるのを恐れ、弘治元年(1555)本尊三国伝来阿弥陀如来をはじめとして、諸仏寺宝類を悉く佐久郡禰津村に移した。その年の8月には上杉軍の本拠となっていた善光寺は炎上し、その後も、甲越両軍の衝突が起こったため、信玄は安全な場所に善光寺如来を奉遷することを決意。その地を、本田善光葬送の旧跡とされる板垣の郷に定めた。永禄元年(1558)、善光寺大本願第三十七世智冠鏡空上人以下僧徒堂衆に至るまで、一山悉く信濃より迎えた。一行は上条村法城寺に到着、翌年仮屋を建て、永禄8年(1565)金堂が落慶した。ところが、天正10年(1582)武田氏は滅亡。織田信長により、本尊は岐阜に奉遷されたが、本能寺の変により織田信雄により尾張甚目寺へ移座。その後、徳川家康が請受し、遠江鴨江寺に遷座。家康の夢枕に善光寺如来が立ち、一旦甲府に帰座する。慶長2年(1597)豊臣秀吉は、地震で崩壊した方広寺大仏の替りに、生身阿弥陀如来像勧請を決意。壮麗な行列により入洛したものの、翌年秀吉の病により、信州へ帰仏した。甲府では、本尊の信州への動座により、新たに前立仏を本尊とし、供僧を組織再編。残された諸仏寺宝類を護持し、本坊三院十五庵三坊を有する大寺院として、浄土宗甲州触頭を勤めていた。  しかし、宝暦4年(1754)、門前の失火により堂塔すべて烏有に帰した。再建勧進のため、中興癡誉寿看上人・性誉霊海上人が奔走。三十余年の歳月を経て、寛政8年(1796)現在の金堂が竣工した。単層裳階付二重の撞木造で、正面梁行き23.6㍍、正面屋根幅30.8㍍、側面桁行38.0㍍、総奥行49.1㍍、総高27㍍、建坪310.8坪という、東日本最大級の木造建築として名高い。昭和32年より五年間に亙り大修理が行われ、今日の威容を見るに至った。なお、建築厨子と棟札は重要文化財附として指定されている。正面厨子床下には、本尊善光寺如来と結縁するための戒壇廻りがあり、信徒の拝観が絶えない。

善光寺山門一棟 附 棟札一枚(昭和30年6月22日指定)

 宝暦4年(1754)、金堂と同時に焼失した山門は、明和4年(1767)上棟供養が行なわれている。時期は不明であるものの、金堂よりは先に完成したと思われる。重層の楼門で、桁行16.88㍍、梁行6.75㍍、屋根幅22.9㍍、棟高15㍍。和様と唐様を折衷した本格的な大建造物である。棟札も重要文化財附として指定されている。昭和34年8月14日の第7号台風で倒壊したが、翌年修理着工。昭和37年3月、金堂と同時に竣工している。

銅造阿弥陀如来及両脇待立像三躯(昭和48年6月6日指定)

 銅造鍍金。「建久六年(1195)」「蓮阿」などの銘がある。在銘の善光寺式三尊像では、最古の像。信濃善光寺前立像として、熱田の定尊の勧進によって造立されたと、『善光寺縁起』にある。像高、阿弥陀147.2㌢、観音95.5㌢、勢至95.1㌢。中尊の重量は242㌔という圧倒的重量で、堂々たる威容を誇る。 善光寺式阿弥陀三尊像としては例外的な、等身の大像。これは、当時流行した生身信仰との関わりで、説明できよう。すなわち、信濃善光寺の本尊は、嵯峨清凉寺の釈迦如来像や因幡堂平等寺の薬師如来像とともに、なま身の、実際に生命が宿っている存在として、信仰されていた。しかし、善光寺本尊は当時から絶対の秘仏として、拝することはかなわなかった。そこで、生身像を視覚的に実感させる役割を果たすため、等身の新仏を冶鋳する必要があったのではないかと考えられるのである。本像は、中世においては秘仏本尊の前立仏として、信濃において多くの参詣者の信仰の対象となっていた。 永禄元年(1558)、武田信玄による善光寺本尊甲斐遷坐の際には、他の宝物と同様動坐された。その後、本尊が信濃に奉還された後は、新たに甲斐善光寺本尊として祀られ、今日まで霊像として大いなる信仰を集めている。本像は、倉田文作元奈良国立博物館館長によって、その価値を見出され、学術調査によって「建久六年」の銘文も発見されたことから、『善光寺縁起』における定尊勧進の伝承が裏付けられた形となった。 現在、金堂正面の厨子に安置されている。開帳仏のため、一般公開はしていないが、平成9年春、八十年振りに御開帳を厳修した。その後は、信濃善光寺御開帳にあわせ、七年に一度の御開帳を行っている。なおそれ以外にも、七草法要・大施餓鬼会・御身拭(おみぬぐ)いなどの年中行事や、檀徒の納骨時には、御開帳が行なわれることもある。

木造阿弥陀如来及両脇待立像三躯(昭和25年8月29日指定)

 半丈六の阿弥陀三尊像。桧材の寄木造、彫眼、漆箔仕上げ。典型的な藤原仏の構造を有し、本格的な定朝様式を伝えるみごとな秀作である。十二世紀前半の作。もと金堂西の間にあったが、現在は宝物館に安置され、常時一般公開されている。文禄年間(1592~6)の金堂内陣修理の際、浅野長政によって千塚村光増寺より動坐されたものという。像高、阿弥陀140.6㌢、観音139.1㌢、勢至139.7㌢。旧国宝。昭和五年十二月修理。

木造阿弥陀如来及両脇侍立像三躯(昭和25年8月29日指定)

 前項同様、半丈六の阿弥陀三尊像。桧材の寄木造、彫眼、漆箔仕上げ。作風は基本的には同じだが、やや遅れた十二世紀後半の作とされる。もと金堂東の間にあったが、現在は収蔵庫に安置されている。浅野長政によって北巨摩郡宮地村大仏堂より動坐されたものという。像高、阿弥陀138.8㌢、観音156.3㌢、勢至153.0㌢。旧国宝。昭和五年十二月修理。現在、非公開であるが、事前予約申込みのある研究者・団体には、便宜を図っている。


山梨県指定有形文化財

木造源頼朝坐像 一躯(昭和54年12月28日指定)

 源頼朝は、文治3年(1187)に炎上した信濃善光寺を復興した大檀那。建久2年(1189)に伽藍復興、建久6年、前立仏完成。建久8年には、善光寺を参詣したと伝えられる。胎内背面に文保3年(1319)の墨書銘があり、造像銘か修理銘か決め手はないが、いずれにせよ最古の源頼朝像として名高い。信濃よりの伝来像。像高、94.5㌢。宝物館にて公開。

絹本著色浄土曼荼羅図 一幅(昭和35年11月7日指定)

 鎌倉期の制作にかかる、いわゆる当麻曼荼羅図の六分の一図。信濃・甲斐の両善光寺ともに、境内に独立した曼荼羅堂があり、善光寺信仰の中でも重視されていたらしい。縦187.8㌢、横187.8㌢。破損が著しいが、昭和62年修覆された。収蔵庫保管。

絹本著色善光寺如来絵伝 二幅(平成10年6月8日指定)

 全国に、中世の『善光寺如来絵伝』は八本しか確認されていないが、そのうちの一本。十五世紀後半の作か。第一幅には善光寺如来出現から百済出発まで。第二幅には本朝伝来より善光寺建立までを描く。元和3年(1617)の修理銘があり、徳川忠長が大檀那となって修理したことがわかる。第一幅、縦146.5㌢、横81.5㌢。第二幅、縦145.8㌢、横82.0㌢。信濃より伝来。収蔵庫保管。

銅鐘 一口(昭和54年2月8日指定)

 「正和二年(1313)歳次癸丑六月日」の鋳造銘がある。鎌倉期の梵鐘としては、最大級の大きさを有する。刻銘には『善光寺縁起』の一節も記されており、縁起研究の上からも重要な意味を持つ。武田信玄が、信濃から引きずって運んだと伝えられ、傷が著しいため、「引き摺りの鐘」の異名を持つ。総髙181.8㌢、口径90.5㌢。鐘楼堂で、現在も時の鐘を告げている。


甲府市指定文化財

木造薬師如来立像 一躯(平成20年8月29日指定)

 通称「峯薬師」。桧材一木割矧造り。平安時代後期制作。光背は鎌倉時代の後補。平成18年12月に修覆し、欠損部していた左手首と薬壺、台座などを新たに制作した。本像は、『裏見寒話』『甲陽随筆』『甲州噺』などによると、元亀2年(1571)、武田信玄公が三河に出陣の折、鳳来寺(現愛知県新城市)に登山し、御本尊「峯薬師」を奉遷したものと伝える。鳳来寺は、奈良時代に利修仙人によって開かれ、源頼朝によって再興されたという真言宗の古刹で、天文11年(1541)松平広忠と夫人於大が、鳳来寺の「峯薬師」に子授けの願掛けをして生まれたのが徳川家康だと伝える。つまり、家康はこの「峯薬師」の申し子ということになる。本像は昭和初年まで、境内の薬師堂に祀られ、胸の病をはじめとする病気平癒、子授け、安産の霊像として近隣の信仰を集めていたが、著しく破損したため収蔵庫に安置され、これまでほとんど世に知られることはなかった。平成19年に初めて公開され、平成25年にも国民文化祭記念事業として金堂で開帳された。像高61.0㌢。

木造法然上人坐像 一躯(平成9年11月27日指定)

 浄土宗宝指定。浄土宗開祖法然にも、史実とは異なるものの、信濃善光寺参詣が伝承され、善光寺で崇敬された。本像には、弟子達が遺灰で作り、西山証空の弟子勧信坊が、当麻曼荼羅とともに善光寺に移したという伝承がある。鎌倉末期作か。像高、76.8㌢。信濃より伝来。金堂内々陣東の間に安置。

木造蓮生法師坐像 一躯(平成9年11月27日指定)

 熊谷直実は、一ノ谷の合戦で平敦盛を討って出家。法然の弟子となった。同じく善光寺参詣伝説も伝えられる。前項法然上人坐像と同一作者と思われる。像高、83.8㌢。信濃より伝来。宝物館にて公開。

木造玄和居士坐像 一躯(平成9年11月27日指定)

 「甲斐国/玄和居士之像/善光寺金堂本願主/雨宮祖」と胎内銘があるが、後銘である。玄和居士なる人物は、善光寺の縁起に見当たらない。袈裟を着けた僧形像であり、銘は後世の訛伝であろう。面貌は精彩に富み、鎌倉期の優作といえる。像高、89.5㌢。信濃より伝来。宝物館にて公開。

木造本田善光坐像 一躯(平成9年11月27日指定)
木造本田善光夫人坐像 一躯(平成9年11月27日指定)

 善光寺建立の大檀那、本田善光とその夫人弥生の像。室町期の作か。善光像、像高、92.3㌢。弥生像、像高、77.2㌢。信濃より伝来。宝物館にて公開。

木造源実朝坐像 一躯(平成9年11月27日指定)

 源実朝坐像としては、最古の優作。高貴な面貌を有する。鎌倉末期作か。像高、75.2㌢。信濃より伝来。宝物館にて公開。

麻布朱地著色地蔵十王図 一幅(平成9年11月27日指定)

 朝鮮李朝万暦17年(1589)の銘がある。地蔵尊を中心に、周辺に僧侶や十王などを配する。下記加藤光泰の、朝鮮出兵の際の戦利品であろう。縦102.4㌢、横91.7~92.3㌢。収蔵庫保管。

加藤光泰の墓 一基(昭和62年3月31日指定)

 甲府市文化財史跡指定。金堂東北の墓地の一画にある。加藤光泰(1537~1593)は、豊臣秀吉配下の戦国武将。甲斐二十四万石、甲府城主に任じられ、大本願智慶上人への帰依が深かった。文禄2年8月29日釜山付近の西生浦で戦病死し、遺骨を当山に埋葬した。加藤光泰の子孫は、のち伊予大洲城主となった。

 他に、木造飛天像(藤原時代)・銅造阿弥陀三尊像(燈籠佛)(鎌倉時代)・銅造阿弥陀三尊像(鎌倉時代)・木造聖徳太子像(室町時代)・刺繍戸帳(年代未詳)・刺繍阿弥陀三尊像(室町時代)・刺繍六字名号(室町時代)・武田信玄朱印状(室町時代)・豊臣秀吉朱印状(桃山時代)・紙本淡彩善光寺古伽藍図(江戸時代)など、文化財未指定の優品が数多く蔵される。

参考文献抄

『重要文化財善光寺修理工事報告書』 山梨県 1962.3
山田泰弘・吉原浩人『甲斐善光寺』 善光寺 1982.4
宇高良哲・吉原浩人『甲斐善光寺文書』(近世寺院史料叢書5) 東洋文化出版 1986.12
吉原浩人編『《燈籠佛》の研究』 至文堂 2000.11
坂井衡平『善光寺史』上・下 東京美術 1969.5(1938脱稿)
小林計一郎『善光寺史研究』 信濃毎日新聞社 2000.5
倉田文作『仏像のみかた〈技法と表現〉』 第一法規 1965.7
山田泰弘「甲斐善光寺の肖像彫刻―源頼朝像など―」 『三浦古文化』第29号 1981.6
吉原浩人「甲府市善光寺蔵『善光寺如来絵伝』考」 『甲府市史研究』第8号 1990.10
吉原浩人「善光寺本尊と生身信仰」 『仏像を旅する 中央線』 至文堂 1990.6


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